萩中金属(東京都大田区、企業名は仮称)は中小製造業の集積地、東京都大田区に工場を構えて約50年が経つ。同社は耐熱などに優れるステライトガス溶接と呼ばれる溶接を得意とし、エンジン部品の溶接加工を行う。高度経済成長期を支えながら、日本の製造業の浮き沈みを見続けてきた鎌田勝人社長(76歳)に同社の取り組みと周辺環境の変化を聞いた。
-工場を構えて約50年が経過しました。
「中学卒業後、千葉市の職業訓練校で溶接技術を学び、千葉から東京に移ってきた。自動車メーカーの工場で溶接工として数年間働き、友人と二人で溶接業を行う 萩中金属を立ち上げたのが25歳(1970年)ごろ。2年後に友人は別の仕事に移ったため、27歳から一人で仕事をしている。立ち上げ当時は高度経済成長期の真っただ中で、景気が良かった。バブルが弾ける90年代までは、好景気が続いたが、それ以降は売り上げも下降線を辿っているのが現状だ」
「業務内容はエンジン部品のステライトガス溶接を行っている。詳しい部品名は避けるが、ステライトガス溶接は、熱に強く、硬いという特徴を持つため、エンジンの爆発面に隣接する部分の部品の溶接を行っている」
-現在まで浮き沈みがあったと思いますが、50年続けてこれた秘訣はなんでしょうか。
「当社はエンジン部品の細かな耐熱溶接を一貫して行ってきたが、私自身、器用な人間ではないと思っている。今振り返ってみると、器用ではないと思ってきたことが、一つ一つの仕事にまじめにやってこれたことに繋がっているかもしれない。また個人事業はサラリーマンとは違い、責任はすべて自分になる。そのため、人の1.5倍は仕事をしないといけないと思ってやってきた」
「ほかにも重視してきたのは、人間関係だ。当社は自動車業界だと、3次下請けになる。ステライトガス溶接は多少特殊ではあるが、当社以外にも会社は多くある。さらに発注元企業でも同様の仕事を内製しているため、いつ切られてもおかしくない状況ではある。特に発注元企業との人間関係は重視している」
-最盛期に比べると受注量も落ちてきていると思います。どうやって今後、事業運営をしていきますか。
「景気の動向や溶接のオートメーション化で受注量は減っているのも事実だ。かといって、この仕事だけを50年行ってきたので、ほかの仕事をやろうとも思わない。歳のせいもあり、視力も落ちてきている。今までのように一つ一つの仕事をまじめに、できる範囲で仕事を続けていきたい」
一問一答コラム:大田区の町工場を見続けてきて50年
ー大田区の工場数は1983年の5,120をピークに、2018年は同1,151と約5分の一に減少しています。その点についてどう思いますか?
「ここ半年で溶接治具の修理をお願いしてた近所の機械屋さんも2件廃業した。昔は町工場の騒音もあり、活気があった印象だが、今は工場跡地が住宅や駐車場に様変わりしている。仲間が少なくなるのは寂しい気もするが、時代の流れでもあるので、しょうがないことだと思う」